五七五七七剣豪伝
五七五七七剣豪列伝
佐土原台介
戦国の 世に竹刀をば 創造す 真の名人 上泉伊勢
上泉武蔵守信綱(かみいずみむさしのかみのぶつな 1508〜1582)。
新陰流。上野国大胡の城主の子に生まれる。若い頃から剣技の天稟を現し、陰流の創始者愛州移香斎の子元香斎に就いて業を習得した。戦場にもたびたび出陣し、上野国一番槍と呼ばれるほどの武辺振りを現したが、武田軍に城を破られ降伏。その際立った武名に惚れ込んだ信玄に配下に加わることを勧められたが固辞し、兵法修行の旅に出る道を選ぶ。その際、信玄の名の一字を貰って秀綱改め信綱とした。近畿では並ぶものがないといわれた柳生宗厳、槍の名人宝蔵院胤栄を、赤子の手をひねるように易々と打ち破り、両者は直ちに信綱の弟子となった。さらに、時の将軍足利義輝の上覧の栄に浴し、義輝から「上泉兵法古今比類なし天下一」の称を与えられている。日本武道史にその名を燦然と輝かす第一等の人物である。剣聖と称せられている。
柳生石舟斎の師匠として知られる稀代の名人、という側面のみがえてして強調されがちなこの人物の最大の功績は(試合といえば木剣か真剣で行われていた当時の殺伐とした世にあって)、袋竹刀というものを発明したことである。乾燥させた竹を八つに割ってなめした牛皮で包んだ簡略なものであるが(ヒキハダシナエという)、この発明によって存分に試合が出来るようになった。失わなくてよい命を失わなくて済むようになったのである。この功績はいくら強調しても強調しすぎるということはない。歴史の教科書に名を記されて当然の偉人というべきであり、柳生十兵衛や宮本武蔵以上に広くその名を知られてよい人なのである。その最後の地は故郷の大胡、いや柳生の里など諸説紛々であったが、前橋市在住諸田政治氏がその著『剣聖上泉信綱詳伝』(1985年刊)という大著で、北条氏の小田原城下での死亡説を証拠を挙げて述べておられる。
幾度も 首級を挙げし 卜伝は 身に刀傷 一つも無しとぞ
塚原卜伝高幹(つかはらぼくでんたかもと 1489〜1571)
新当流。十兵衛や武蔵と同じぐらいにその名は良く知られている。秘伝「一の太刀」(ひとつのたち)は余りにも有名であり、時代小説などによく出てくるが、実はその秘伝の内容はよく分かっていない。口伝として伝えられ、文章として残っていないからである。筆者は様々な文献を読み比べるうち、その内容を推測するに至った。すなわち、仁王立ちしたまま剣を八双に構え、相手が打ち出してくる剣に撃ち乗って(合し撃ち)相手の頭上を撃つのである。半身から垂直に打ち込む合し撃ちは下手をすると相打ちになってしまうが、仁王立ちのまま右斜めから打ち込むので、確実に相手の剣を弾いてそのまま頭頂を撃ち割ることができる恐るべき業である。
剣術の 地図塗り変えたり 石舟斎 真骨頂は 無刀取りなり
柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし 1527〜1506)
師の上泉信綱から無刀取りの課題を与えられて、見事に業を完成させ、新陰流の道統継承者となった。高名な剣家としての噂を伝え聞いた家康に招かれることになる。家康はその業を確かめるため、無刀の石舟斎に木刀で打ち込んだところ、次の瞬間仰向けにひっくり返ったという。剣術達者の家康も石舟斎の前では赤子同然であったわけである。どの剣術流派も、無刀のときに切り付けられたときに対応する業はあるはずであるが、それを流派の奥伝として完成させたのは柳生新陰流のみである。無刀取りを完成させた偉大な流祖の墓は、柳生の里の墓地で、息子の宗矩や孫の十兵衛の巨大な墓石の後ろに隠れるようにしてこじんまりとある。
熊笹に 座して 茎を折らざるは 覚者なりけり 飯篠長威
飯篠長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお 1387〜1488)
天真正伝香取神道流流祖。近代剣術の祖といわれる。多くの流派が、免許の奥書に列記する道統のトップにこの人の名を置く。最古流の流派であるが、その道統は現代に伝えられており、宗家による演武をいろいろな機会に観ることができる。500年余に亘って続けられてきた流派であるから、幾多の名人達人を輩出したことであろう。とはいえ、流祖家直のように、熊笹の上に宙に浮かぶがごとくふわりと座して見せることができた人は、他には居なかったのではなかろうか。その姿を見て、立会いを所望に来た武芸者は皆逃げ帰ったという。何百日も香取神宮神殿前に参篭して神の加護を唱え、剣技を練って倦まないその不屈の精神は、ついに神仙の域に達したのである。
夢想剣 伝説作りし 一刀斎 神子上残し 山へ消えたり
伊藤一刀斎景久(いとういっとうさいかげひさ 1560〜1653)
一刀流宗家に代々伝わる瓶割り刀と称される刀がある。備前一文字の作とされる。この刀は、豆州三島神社祭殿に奉納され、抜き身のまま荒縄で梁に吊るされていたが、ある日その縄が切れて刀が落ち、祭壇に供えられていた酒瓶を真二つにした。折りしも伊豆大島から脱出して海を渡り、三島神社の床下に寄宿していた若き弥五郎(後の一刀斎)の只者でないことを見抜いた祠官の織部氏がその刀を与えたものであるという。後に神社に賊が侵入したとき、大瓶の陰に隠れた賊を瓶もろとも斬り割ったことから自ら瓶割り刀と名付けたという。この刀は明治の御世まで伝わり、日光廟の宝庫に奉納されたという。現在、瓶割り刀の所在を尋ねても不明であるとのことである(笹森順三著『一刀流極意』)。
甚助は 居合の祖なり 抜打ちで 斬った瞬間 刃は鞘の中
林崎甚助重信(はやしざきじんすけしげのぶ 1544〜?)
居合抜刀術の祖とされる。現在、剣術を学んでいるといえば「居合抜きですか?」と問い返される位、剣術=居合という等式が成り立っている。長谷川英信流、夢想神伝流、無外流が主に行われている三大流派である。居合の真髄は俗に「鞘の内」といわれるが、抜刀すれば瞬時に相手を斬って捨てる力と業が込められていなければならない。ところが、筆者のみるところ、居合は型の正確さと美しさのみに囚われ、瞬時に相手を斬って捨てる迫力と業に欠けている。別に、抜刀道という流派があり、これは組太刀や捌きに囚われず、もっぱら巻き藁や竹などの据え物を斬ることに専念する。居合と抜刀が別々になってしまったのである。居合道も抜刀道も、その二つを融合した初心に帰る必要がある。
武蔵をば 誰が非難を 出来ようか 生き残りたるは 強者の証し
新免武蔵玄信(しんめんむさしげんしん 1584〜1645)
ここは『五輪書』に記されている署名を正式名として掲げることにする。武蔵は自分より強そうな相手とは勝負しなかった、とまことしやかに主張する作家や評論家たちがいる。しかしながら、敵討ちなどの特別の理由がない限り、戦って負けると思う相手と勝負する馬鹿はいない。だからといって、挑まれた勝負を避け、逃げ隠れるようなことはなかったに違いない。29歳位までの間に60余度の勝負をして、一度も負けたことはないと自ら書いていることでもそのことが知れる。同時代人である将軍家指南柳生宗矩や小野次郎右衛門との勝負を何故避けたのかと言いたいところなのであろうが、一介の武者修行者にどうしてそのような機会があるというのか。武蔵は死命を制する勝負に勝つために、卑怯と言われても動じない強い精神を有していた。それが強さの証明である。